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VOICE 35 :キョウイクってなんだろう? ―“共育”のカタチが存在するデンマークのフリースクール―(Nozomi)

【はじめに】

 

世界で幸福の国として有名なデンマーク。

そんな幸福指数の高い国のフリースクールで働き始め半年過ぎた時の記事です。

 
英語、数学、理科など試験のために知識を詰め込む。

「知識を詰め込み、頭だけ、大きくなった結果、知識の実践としての使い方がわからない。」

 

それが進学校と呼ばれる高校を卒業した私の大学生活や会社生活だったと思います。

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今日、英語を中心にアクティブラーニングの導入や教育現場の労働環境や教員の教育制度の改善や改革が行われているニュースをよく見かけます。

 

学校教育と地域の教育の二つを専門として学んだ私は、かつて、偏差値重視の学校教育へ疑問を持っていました。

ただ、今の環境で思う事はアウトプットするためにはインプットの量が必要であること

 

アウトプットや実践を積む機会が少ないと自分で判断し、作り出す事ができれば問題はないのではと感じます。

 

なぜ「校や教師に頼ってしまっているの受け身の姿勢になってしまっているのかという事」が今現在、抱く疑問です。

 

日本の“教育”が発達する情報を目にする傍ら、学生時代に学んだ地域の“共育”が勤務地であるデンマークのフリースクール、学校という現場で存在し、キョウイクの在り方について疑問を抱くこの頃です。

 
そんな、 当たり前に存在している“共育”のカタチは私達が忘れてしまっている本来あるべき姿の学習ではないのだろうか。

 

そんな想いから本記事では“共育”について書いていこうと思います。

【生徒=個々―1人1人を無視しない姿勢―】

デンマークの“一般”と呼ばれる学校からキックアウトされた生徒たちが私の勤務するフリースクールに通っています。

 

日本の様に1学年が同じ年齢で統一されたクラス編成ではありません。

 

特に決まったクラス編成の仕方はないようで、できるだけ本人の意思や得意分野で分けているみたいです。前学期は大まかな年齢で区切ってメインとなる(単位を取らないといけない科目)授業は行っていました。

 

今学期のクラス編成は未成年グループと成人グループで分け、未成人クラスの年齢は統一していないようです。

 

 
ちなみに年齢でみると生徒は9歳~27歳、学校運営側(アシスタントティーチャーやボランティア含め)は23歳(私が一番最年少)~60歳です。

 
学校は朝9:00開始で先生が生徒の一人一人に「おはよう」の挨拶と握手して回ります。基本的に先生から生徒に近付いていきます。この学校独自の文化で私が一番大好きな朝の瞬間です。

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Photo by Cytonn Photography on Pexels.com

 

疲れている子には励ましたり、元気な子には「イイね!」と褒めてあげたり…。

 

1日の始まりに学校内の先生が1人1人とコミュニケーションを取る、
そんな生徒=団体としない姿勢が大好きです。

 

 
全員がお互い挨拶し終わると朝礼45分間があります。

 

その時間は必ず先生を含め皆で過ごす事になっています。(自閉症や特別な理由がある子は彼らの意思を尊重し、全体朝礼には参加しなくても良い事を認めています。)

 

【様々な価値観や意見を共有する朝礼】

 

毎日45分の時間は曜日ごとに先生が分担して、様々な分野の内容をプレゼンテーションします。

 

政治、環境、人種、芸術、歴史などテーマは特に決まっておらず、先生の興味や専門の分野のため、個性豊かな内容です。

 

前学期は私も日本の沖縄(歴史や戦争の話)やステレオタイプのワークショップ、Kawaii culture(めちゃめちゃ大ウケ)など先生の代打で朝礼をさせてもらいました。

(デンマーク語が話せないため、通訳を英語が得意な生徒に頼みました)

 
その45分間が終わると、国やコミューンの規定に沿った授業、デンマーク語や英語、数学、歴史などの授業がクラスに分かれて行われます。

 

私の学校の校長はこの45分間を大事にしています。
(現在、難民キャンプでのユース活動でもこの時間をプログラムで導入しています。
興味のある方はこちら

 

政府の定めたガイドラインに沿った内容ではなく多様なテーマを様々な視点から生徒に新しく知る機会を与えたいとの事です。

 
(そのため自閉症の子がいる成人クラスにも今学期から少人数クラスでの朝礼も導入されました。写真は韓国人の同僚のfinger yogaのプレゼンテーションの様子です)
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私も体験しましたが、45分間はいかに、生徒に興味を持たせるか、朝礼に参加させるプレゼンテーションを行うか(教授法)が大事になってきます。

 

ただ読むだけのプレゼンテーションだと生徒は聞きません。

 

それどころか寝てしまいます。

 

そのため、プレゼンの構成や動画を見せるなどの工夫はもちろん、また、ディスカッションや質問はないがしろにせず、その場でとことん議論する事が多いです。

 

【年齢、立場なんて関係ない―共に学び助け合う姿勢―】

「先生や教える側=完璧である」この公式はこの学校には存在していません

先生も知らない事を恥じる様子は全くありませんし、わからない場合は「よし、親友のグーグルに頼ろう!」といって一緒に調べます。

この姿勢が個人的に大好きで
「分からない事は分からなくて大丈夫なんだ!」
という安心できる雰囲気になります。

 
プレゼンを担当する先生に生徒が補足する事や、先生、生徒関係なく質問や議論が白熱する事も珍しくありません。

 

生徒の質問に対し、生徒が手をあげ、その子に教える。エストニア人の先生がデンマーク語で出てこない単語は生徒が単語を教える事もしばしばあります。

 

45分の朝礼に限らず、休み時間や昼食時には上の子が下の子を世話をしたり、注意をしたり。英語が話せない生徒が外国人である私とコミュニケーションをする際、英語が得意な子が手伝ってあげたり。

 

(悲しい事に私のデンマーク語のリスニング力はとても低いのです…)その子も英語を頑張ってコミュニケーションを取ろうとしてくれたり。

 

休み時間に先生を含めた異年齢間で戯れているのを見かけるのもしばしば。
45分間の朝礼を中心に共に学び、助け合う、教え合う姿勢。

 

そんな立場、国籍、年齢など垣根の無い“共育”がこの学校に中心核として深く根付いています。
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【教育と共育―特殊な学校から見る学び合いの本質】

 

「先生や教える側>生徒、教えられる側」そんな目に見えない力関係が教育に組み込まれ、必然的に生徒、教えられる側は無知としてみなされ、教えられる側は知識のみが貯蓄されていく。

 

Paulo Freire, 銀行型教育と表現してます。)

 

私が受けた学校教育はまさにこの銀行型教育でした。

 

その一方で「学校運営側=生徒」の立場が平等になっているこの学校の教育スタイルである“共育”。

 

年齢、立場に関係なく助け合い、学び合う。大人たちは生徒が主体となった環境をつくり、生徒に学校運営に携わる仕事を頼みます。

 

また、教室外での活動は座学中心の教育を受けてきた私にとって大きなカルチャーショックでした。人手が足りないときは生徒がキッチンを手伝う事もしばしば。

 

家庭科の教科にカウントしているみたいです。

 

キッチンの責任者はシリアからの難民です。

 

生徒はデンマーク語を彼女に教えたり、彼女はアラビア料理やシリアの話をしてたりなどの交流も見られます。
(写真はクッキーづくりの様子。放課後に地域の人を招く定期イベントCafe eveningのために生徒と一緒にクッキーづくりをしました)
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もちろん、デンマークも学校の種類は日本と同様、いくつか種類があります。

 

私達の学校は日本でいう社会法人になり、Commune(友人曰く、県庁と市役所の中間の規模らしい)からお金をもらい運営する私立校です。

 

“一般”の学校に拒絶された生徒たちを先生や学校運営に携わる大人たちは生徒の違いや個性を個々として認めている。

 

また、雇用に関しては外国人労働者への環境が少し問題ですが、それでも、免許無しで学校現場で働くことができる制度は価値観の偏りがなく専門や背景も多様な教師の雇用が可能となっている。

 

 

フリースクールという特殊な学校だからこそ、独自の“共育”が成立し、お互いに学び習うという学習の本質が垣間見えるのかもしれません。

 

“共育”の中で毎日を過ごす私は「先生や教える側>生徒、教えられる側」の図式の教育の記事を目にするたびに違和感を感じ始めている今日この頃です。

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